Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

書くことは死の練習である

赤い柱の間のコンクリートの階段の写真 – Unsplashの無料日本写真

「死」という言葉はきついですね。 「リセット」と言い換えたほうがいいかもしれない。 書くことによってリセットする。 何をリセットするのでしょう?

チャンク仮説

最近「チャンク」を考えていることもあり、リセットも「チャンクのリセット」が最初に思い浮かびます。 チャンクというのは、頭のなかで同時に進行しているタスクの数。 朝ごはんを食べなきゃいけないし、これから買い出しがあるし、お墓も掃除しないといけない。 「やるべきこと」が頭を占有している。

この数が7を超えるとオーバーフローして何もできなくなるという仮説です。

キャパシティを超えると、できることもできなくなる。 「書くこと」はこのチャンクを紙に移す行為です。 紙にチャンクが転送され、頭のチャンクがリセットされる。 そうしたイメージですね。

心に関わることは目に見えません。 物体ではないから直接取り扱えない。 そこを、イメージを媒介にして操作する。 人間が「心」に対し取れる手段はイメージだけです。

バーチャルな物体に変換することで「心」は身体に接地します。 本当は何も変わっていません。 「心」はモノではありません。 でもちょっとだけ肩の荷が軽くなる。 これが「考える」でしょう。 「書くこと」はそのためのツールになっている。

心残り

ガベージコレクションになるかな。 チャンクのなかに役割を終えたタスクが入っている。 ゴミ・タスクがある。 書き出すことで、そのゴミを片付けることができます。

そのタスクは完了済みのタスクではありません。 スレッタの「やりたいことリスト」みたいなものですね。 タスクとして挙げているけど、まだ実行できていない。 それ自体は生きる楽しみなので、あった方がいい。

困るのは、もう実現不能になったタスクです。 未完了だけどチャンクにタスクとして残っている。 「心残り」と呼ばれるもの。 これが多いとチャンク数を削ってしまい、日常に支障が出てくる。 心の濁り。心の凝り。

書くことは「心残り」を明確化し、それを弔うことです。 墓を作ってあげる。 いや、祟りなすものかもしれないので、丁重に祀りあげる。 引き継げるものは引き継ぐ。 忘れるよりは、いつまでも覚えておくために墓標を立てること。

ペルソナの時代

一番手間がかかる「心残り」は「アイデンティティ」と呼ばれます。 つまり「私」のこと。 アイデンティティは大切なことのように言われますが、それは社会から見て都合がいいからでしょう。 ころころアイデンティティが変わるなら、その人に「責任」を負わすことができません。 責任を追求するには「私」の同一性が必須になる。

農業の時代には「家業」がアイデンティティの担保でした(いま家業があるのは政治家くらいでしょう)。 工業の時代は「終身雇用」によってアイデンティティを形成した。 でも商業中心の時代になると、このアイデンティティが人生の中で何度も変化します。 転職したりプロジェクトを立ち上げたりするたび、異なる役割を期待される。 束の間のペルソナを身につけ、そして投げ捨てる。 その繰り返しになります。

この社会状況では「心残り」が発生しやすくなります。 過去のアイデンティティが現在のタスクに寄与しない。 そのたびに「私」は死にます。 新しく「私」を作り直すことが要請される。 虚しくもハウツーで「仮面」をつけ直そうとする。

まとめ

書くことは、過去の「私」を成仏させることです。

お釈迦様はニートだから労働と結婚を否定しましたが、そうですね。 どちらも社会的役割に縛り付けられる「呪い」です。 でも、それを避けても意味がない。

書くことが墓標となること。 そしてチャンクを新しく保つこと。