Jazzと読書の日々

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読者目線は二つあるかもしれない

Woman Pen Notebook|600 Backlink | Photo by The Climate Reality Project on Unsplash

書くことについて考えると「読者から見たらどう見えるだろう」と考える段階があります。 文章の推敲をするとき、これ、読みやすいかな、と。 自分が読者になって読み直してみる。

この読者目線、二通りあるように思えてきました。

対談モデル

「書くこと」は対談に似ています。 自分の中に語り手がいて、その語りに耳を傾ける聞き手もいる。 その二つのパートが話し合っているイメージをしてみてください。

フリーライティングで文章を書いていくにしても、その文章を書きながら、それを読んでいる自分がいる。 「そこを詳しく」とか「こういうことかな」とか聞き手の自分が尋ね、それに対し「そこはですね、…」と語り手の自分が応える。 文章はモノローグではなく、複数の声が入り交じるテクスチャーになっていきます。

この聞き手としての読者目線があると思います。

フロアの存在

もう一つ気になったのが、この対談、観客がいるんですよね。 どこか大手の本屋さんの企画みたいにフロアにファンが集まっている。 そして壇上の対談を静かに聞いているんです。 これが、心の中でも起こっている。

彼らは発言しません。 壇上のふたりの対話がどこに進むのか、見守っています。 ときどき頷いたり、メモを取ったり、あくびをしたりする。 チラチラ時計を見たりする。

これが壇上にはプレッシャーになる。 「ここまででわからないところ、ありますか」と愚にもつかない質問タイムを設けて、会場がシーンとする。 誰も発言しないか、空気の読めない人が無関係な持論を押しつけてくる。 「ああ、そういうのもありますね」と軽くいなし「じゃあ、次に進みますね」と振るものの、どうも違うらしい。 冷や汗が湧いてくる。

脳内対談

ということが、文章を書いていると「私」の中で起こります。

読者目線と言うけれど、書いた文章を公開するまでは、その読者は「私」です。 自分のことなのに、その自分がよくわからない。 見猿、聞か猿、言わ猿というけれど、どうも語り手、聞き手、見守り手の役割が蠢いている。 どれかに視点を置くけれど、置くとしたら聞き手のところで、他の二つは半自動的に動いている。

その力関係の中で「書くこと」が進み、一個の「対談」となるわけです。

これは精神分析の「エス、自我、超自我」でしょうか。 似てるような、違うような感じがします。 テレビ世代だからかもしれません。 テレビの中で俳優さんが黒柳徹子のインタビューを受けている。 そして、その放送を見ている「自分」がいる。 テレビを見ながら、その俳優に同一化したり、黒柳さんの返しに感心したりする。 その体験が「考えること」の鋳型になっているのかもしれません。

回想は死亡フラグ

読者目線と言いながら、本のメタファーじゃないですね。 テレビ体験に近い。 対談している部分に対し、情緒的に少し切れている。 他人ごとみたいにお茶を飲みながら、でも前屈みに共感しつつ見守っている「観客」。 このポジションの占める範囲も広い。

そこが読者目線のポジションになるので、「詰めが甘い」や「ややウケ」といった評価が心の中にコダマする。 批評家ぶっている部分です。 この声が大きすぎると思考が止まったりもする。

そうそう、いま思いましたが、「回想は死亡フラグ」ってあるじゃないですか。 アニメとかで。 敵が倒される前に自分の人生を回想したりする。 いわゆる走馬灯現象ですが、あれもテレビ世代以前はなかったんじゃないかと思います。 というか、ビデオデッキが出回ってですかねえ。 時間的に巻き戻しができる。 そうした時間感覚が作られてからの産物ではないでしょうか。 能や歌舞伎に回想はあっても回想シーンはないと思う。

まとめ

ともあれ、聞き手と観客。 二つの読者目線があるように思います。

どちらも大事なんでしょうけど、意識しないと混同しそう。 まずは聞き手としての目線で文章を推敲して、観客の反応には振り回されたくないけど、どうなんだろうか。