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「るろうに剣心」は戦後日本の課題である

昭和アニメのリメイクは失敗に終わる。 ただ、今回の剣心はいい感じですね。 ストーリーは知っているはずなのに続きが気になります。

不殺の誓い

幕末の剣客だった人斬り抜刀斎。 明治政府樹立のために裏世界でたくさんの剣士を殺めてきた。 その抜刀斎が自らの剣を逆刃刀に持ち替え、誰も殺さないという縛りを自分に掛ける。 それが「不殺の誓い」です。

明治のふりをしていますが、この「不殺の誓い」は憲法9条ですね。 日本が戦争を放棄するのは「人を殺す側に回らない」という宣言です。 「戦争を起こさないようにしよう」ではありません。

戦争反対の理由に「戦争は思想統制をして不自由だからダメだ」とか「空襲や原爆で多くの無辜な市民が命を落とした」といった被害者側の理屈を挙げても意味がないだろうと思います。 だって、戦争する側の理論も「敵国の植民地にされたら不自由になる」や「無差別攻撃されたら無辜な市民が命を落としてしまう」だからです。 戦争放棄の理由と軍備増強の理由は同じ構造をしています。 これではうまく回りません。

不殺とは「加害者にならない」です。 そこから戦争を考えないと始まりません。

戦争放棄

なので「るろうに剣心」という作品は矛盾を抱えています。 戦争放棄とはどういうことかを示す思考実験になっている。 簡単には解けないですよ。 解けないから誓いを揺るがさないことが指針となっている。

不殺とはいえ、刀は持っています。 自衛権はある。 しかも平和な日々が続く日常アニメではなく、切った張ったの戦いが続くバトルものです。 相手は殺す気満々。 しかも、すぐ薫殿の命が狙われてピンチになる。 剣心は修羅場に引きずり出されます。

でも、相手を切り倒すのでなければ、その戦いはどう終止符を打つのでしょう。 これが毎回試される。 御庭番衆のときも十本刀のときも同じです。 相手を殺すことなく、戦いを終わりにするスキル。 「どうなるとこの戦いは終わりと言えるのか」という想像力が要求される。 不殺は日本の状況を反映する鏡なのです。

絶対悪

まあ、漫画ですから、初めの頃は穏当です。 戦って、互いの力量を認め合うことで、味方になる。 左之助斎藤一も剣心の「不殺の誓い」に感心して仲間になる。 ジャンプの王道です。

でも連載が長くなってくると、この繰り返しに違和感が生まれる。 決して味方になれない、分かりあえない「悪」がいるとしたら、それでも「不殺の誓い」は貫けるのだろうか。 もし愛する人を殺されても、憎しみを向けずに済むのだろうか。

剣心の後半はそんな感じですよね。 どんどん出口のない状況に追い込まれ、何度も瀕死の重傷を追いながら、ストーリーも後味の悪いものになっていく。 難しい話です。 自分が守れる範囲の人たちのために剣を振るう。 それがどれほど困難な道であるのか。

個人原理

あと、剣心は「不殺の誓い」を布教しないのですよね。 誰にも勧めない。 自分だけの制約にしている。 個人的にこの設定、好きです。

これも大事なところだと思います。 誰もが不殺の誓いを持てば平和な世の中になるんじゃないか。 そう考えてしまうと、互いに相手がルールを守っているか監視しあう世界になる。 その相互監視社会は不信を基盤にする社会です。 息苦しい。

他人を秩序の名のもとにコントロールしようとする。 パワーバランスみたいなことを口にするでしょう。 その原理がパワハラだからです。 ルールに従わせるには、相手よりパワーがなければならない。 「ルールに従わせる」という発想に無理があります。

なので「不殺」は自分だけの行動原理とする。 剣心の美学はそこから生まれてきます。

まとめ

「そばかす」はあまりに映像と合わなくて斬新。 よくOKが出たなあ。 でも、今でも「剣心はそばかす」のイメージが残ってますよね。 ジュディマリの代表曲だと思う。