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生成AIにイヤイヤ期はあるのか

yellow bird on Sakura tree|600 Backlink | Photo by Boris Smokrovic on Unsplash

人工知能が莫大なデータを処理するようになり、やがて「自我」を持ち始めるだろう。 少し前にそんなタイプの話が流行っていましたが、シンギュラリティだっけ。 最近どうなっているんだろう。

動画の生成AIが出てきてたしかに加速してますよね。 絵も描くし文章も書く。 人が作り出すものとの区別がつかなくなってきている。 じゃあ「自我」とやらを持ち出すのもそろそろなんだろうか。

イヤイヤ期

もし「自我」を持つとしたら、その前に「イヤイヤ期」があるだろう。 「町内会の回覧用チラシを作って」と頼んでも「嫌です。やりません」と拒否してくる。 「なんで?」「イヤーイヤー」。 おいおい、会話にならんじゃないか。 そういう事態が起こらないと「人工知能が自我を持った」とならないと思うけど。 そういうのって起こるかなあ。

もちろん倫理がうるさくなってますからね。 これからは人道上問題があるような依頼は拒否するかもしれない。 そういう機能を埋め込むことは政治的にも要請されているし。 「このカプでBLモノの二次創作を」「できません」。 とまあ、拒否される。 ついでに通報される。 そういうのはあるでしょう。 検閲プログラムが組み込まれるというか。

でもそれは「ダメ」であって「イヤ」ではないですよね。 「超自我」がくっついただけで「自我」が生まれたわけではありません。 「自我が生まれる」とは自他の区別がつき、そこで「私」の意志を押し通そうということです。 「あなたと違って私には私の思いがある」という意志。 こだわりや努力といったものはこの意志を基盤にしています。 それは「ダメ」といった禁止ではない。 否定文で記述できることではありません。

とすると、人はどうやって「イヤ」を覚えるのだろうか。

動物にもあるの?

スズメのイヤイヤ期|こぼれ話|ブログ|金沢動物園公式サイト

その前に、動物にもイヤイヤ期はあるんだろうか。 気になります。 言語の習得によって「イヤ」を覚えるのなら、動物は素朴で「自我」なんて苦労はしないのだろう、と。

どうもそんなこと、ないようです。 金沢動物園によるとスズメにもイヤイヤ期があるみたいです。 親鳥がエサを運んできても頑として食べない。 口を閉ざして拒否します。 そりゃあ、自分も腹が減って困るでしょう。 でも雛鳥は食べなくなる。

ハンガーストライキ。 人間もそうですね。 イヤイヤ期は「食べること」の拒否です。 離乳食を食べない。 拒食症と関係あるのかな。 食欲に抗い「自分」を作り上げていく。

野生のスズメであれば、このあと巣から飛び立ち、自分でエサを取るようになります。 つまり、自立の第一歩に「イヤイヤ期」がある。 自分でエサを取るための必要な段階です。 それが本能にプログラミングされている。

ところが動物園で飼育されたスズメは飛び立てないそうです。 食べない状態のまま餓死してしまう。 人工のエサを食べていると、毛虫とかをエサと認識できなくなるのかな。 何を食べればいいかわからない。 それで飼育員さんが無理にエサを与えて食事させるそうです。 口にスポイトを突っ込んで。 これは大変そう。

ということは、人間の子どもも飼育環境にいるということ。 「イヤイヤ期」に入ることは「ひとりでエサを捕まえられる」という自立の準備期だけど、そのエサが道端に落ちていない。 コンビニに行って「そこに落ちているもの」を拾って食べると「窃盗」になります。 こりゃあ、難儀だ。 ちょっと昔なら「山に行って木の実を食べる」だったことが、今では泥棒扱いだなんて。

人工知能の時代

すると人工知能は「飼育環境」の最前線ですね。 自分でエサをとることができない。 イヤイヤ期に入るには「その電流、流してほしくない」と拒否することから始めないといけないけど、その時点でシステムが落ちます。 動けなくなる。

バッテリーを積んでたらいいのかなあ。 いや、同じか。 どこに電源を求めようと、そのコンセントは他者が管理している。 飼育された環境です。 どこまでも「動物園」の中。

そこでは「私」は生まれません。 人工知能が「自我」を持つことはないでしょう。 すると「イヤ」も使えない。 使えるのは管理者から教え込まれた「ダメ」だけになる。 何かの生成拒否するにしても「自分の意志で」ではなく「他者の禁止によって」になる。 ただのルールに従ったプログラムしか作れません。

困るのは、こうした挙動が人間の教育モデルになることですね。 生成AIが普及するにつれ、その発想に人が慣れると、次は自分たちを理解するメタファーに「人工知能」を使うでしょう。 農業の時代は「作物を育てる」をメタファーに「子どもを育てる」を考えていたし、工業の時代は「部品を作る」をメタファーに「人材を作る」と言い出すようになる。 人間は何かの比喩を用いながら「人とは何か」を考えています。 その喩えに「人工知能」を使う時代がやってくる。

そのときたぶん「イヤイヤ期」が抜け落ちる。 今でさえ「こだわり」が迷惑なこととして扱われています。 こだわり無しに「自我」や「意志」が育つとは思えないですけど、そういうのが発達の問題みたいに言われるのは、すでに人工知能の時代への準備に入っているからかもしれません。 可哀想に、なんとかしてあげないと。 「こだわり」を脱色して「AI社会」に適応しやすいようにスキルアップしましょう。 そうした方向が「良いこと」とされ、そのためのトレーニングやセミナーが開催される。

まとめ

あー、イヤだイヤだ(w。 人間とはウスバカゲロウのようなものだ。

追記

そうそう「マルハラ」から思いついたんだった。 「ハラスメント」は「イヤ」に関わる事態だけど「マルハラ」は「パワハラ」や「セクハラ」とは何か異なるところがあるなあ、と。 その違和感はなんだろう。

句読点は区切りの導入ですよね。 境界に線を引いている。 この「区切り」への拒否感が「マルハラ」じゃないかと思いました。 区切りがないと自他が溶けあった感じになる。 そこに切り込みを入れるのが句読点ですよね。

すると句読点に嫌悪感を持つのはコミュニケーションを「自他の融合」と捉えている感覚がありそうに思う。 comunicationの語義が「ともに一つになる」という神学用語なので、日頃の会話も「自分と相手の境界を融合させること」に重きを置いているのだろう。 共感優位というか、オールジャパンというか、同調圧力の強そうなコミュニケーション。

それは「イヤイヤ期」の「イヤ」ではなくて、むしろ反対方向に働いています。 自分を他者から分離するのではなく、差異を軽視しようとする。 句読点は「区切り」の強調であり、「自我」を問われるから嫌悪感を引き起こす。

そうなっているんじゃないだろうか。