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語彙の変遷を青空文庫で追いかけてみる

「頭に来る」が「怒り」を表すのは戦後である。

Aozora

Textwellのカーソル行を青空文庫で検索するアクション。Googleを仲介しています。でも主眼は作品や著者の検索ではありません。それよりも「表現」に重点を置いています。作品の中で、ある単語が使われているかどうか。

見つかった場合は、そのリンクを取得したり、全文を読み込んだりできます。

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「頭に来る」

今回の調査は「頭に来る」です。怒りの表現だと思いますよね。類語辞典にも「腹が立つ」や「ムカつく」の言い替えとしてある。でも本当でしょうか。

大正時代

それらの徒の招きでここへ押上ったものかに相違ない、という想定が、早くも村正どんの頭に来ると共に、その夢中で口走る囈語の中に、呼び立てる人の名もどうやら聞覚えがないではない。

日本を代表する長編時代小説。1913(大正2)年から連載された。ここでは「頭に来る」という表現が「思い浮かぶ」の意味で使われています。

昭和初期

「本当に沈没したかな」独言ひとりごとが出る。気になって仕方がなかった。――同じように、ボロ船に乗っている自分達のことが頭にくる。

プロレタリア文学の『蟹工船』。1929年(昭和4年)に発表。昭和に入っても「頭に来る」はまだ「思い浮かぶ」のニュアンスですね。

戦後

新聞は、悪意と虚偽と侮蔑であふれかえっている。慶一は、ほんとうに頭にきていた。

鶴岡雄二が1994年に発表した小説。1960年代の若者言葉として「頭に来る」が「腹を立てる」の意味で使われています。これを見ると1960年ごろには怒りとして「頭に来る」が市民権を得たと考えて良さそう。

血の気がのぼる

今まで青ざめていた顔に、サッと血の気がのぼって、目の色も俄かに生々と輝いて来た。

怒りとして「頭に来る」が使われる前に「血の気がのぼる」があるんじゃないかと思い、調べてみました。ヒットしたのは江戸川乱歩。1937(昭和12)年に連載していた短編の中に「血の気がのぼる」が使われています。

ただ、この用例だと「血の気が引く」の解消した状態を「血の気がのぼる」と呼んでいますね。怒りではなく「正気を取り戻す」のニュアンス。戦前では、怒りとしての「血の気」はまだ一般的ではなかった。

腹が立つ

腹が立ったところをすぐ十七字にする。十七字にするときは自分の腹立ちがすでに他人に変じている。

「腹が立つ」の歴史は古い。すでに夏目漱石が1906(明治39)年の『草枕』で使っています。ただ、これは漱石の「発明」かもしれない。同時代の作家たちに「立腹」はあっても「腹が立つ」が見当たらない。

ここあたり、感情表現を他の文豪たちがどう扱っていたか研究できそう。

むかつく

評論家には、このような謂わば「半可通」が多いので、胸がむかつく。

「むかつく」がいつから使われているか調べたら太宰に行き着いた。戦後1948(昭和23)年の評論。太宰自身は怒りの表現に「腹が立つ」を使っているが、嫌悪感が含まれるとき「胸がむかつく」と使い分けています。

これがのちの「ムカつく」の始まりでしょうか。

考察

「怒り」は「腹が立つ」「胸がむかつく」「頭に来る」と表現されていて、身体感覚に根ざしている誤解をされているのですが、実は文化的な要因が強い二次感情じゃないかと思います。何か情動は先にあるにしても、それを自己への脅威と解釈しなければ「怒り」は生じない。

「空舟にぶつかられても、驚きこそすれ怒りはしない」と道元が言うように、一次感情は驚きである。空舟にもし人が乗っていると「わざとぶつけたのか」と解釈が挟まれ、怒りが生まれる。欧米人が言うような fight or flight は一次感情ではない。

1970年代に「ムカつく」が流行し1990年代に「キレる」が出てくるけれど、これはその親世代の語彙を反復していそう。戦中派の「むかつく」が「ムカつく」に、団塊の世代の「頭に来る」が「キレる」に置き換わっている。

怒りの持ち場所が「浅く」なっているのが気にはなりますが。

まとめ

青空文庫は文学の宝庫。でもそれだけでなく、日本語表現のデータベースとして使えるんじゃないかな。そのためには戦後の小説がもっと欲しいし、明治以前の文献もあるとうれしい。

もっとも、万葉集とか源氏物語Wikisourceで補完できそうです。