Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

HOW DEEP IS YOUR LOVE

夏の風が吹いてきた。そろそろ、梅雨も終わるかな。

HOW DEEP IS YOUR LOVE
(1977 Barry Gibb)

朝日に輝く、君の瞳を覚えている
降り注ぐ雨に君の温もりを感じる
君はまた何処かに行っちゃうけど
腕の中にはまだ君がいるみたいだ
まるで夏のそよ風のように現れて
抱きしめる間もなく消えてしまう

だから、僕に教えてほしいんだ
君が僕のことどう思っているか
その愛がどれほど深いものかを
それが気になって仕方ないんだ

僕たちは愚かな世界を生きている
自分たちを傷つけ合う、この世界
もし変わらぬ真実があるとしたら
それは、僕が君を好きだってこと

君を信じている、心の奥底から
君は僕の魂の扉を開いてくれた
僕の暗闇に差し込んだ一筋の光
僕を奈落から救い出してくれた

君は気づいてないかもしれないね
僕がこんな想いをしていることを
もし気づいてくれるときが来たら
教えてほしい、君の本当の気持を

邦題は『愛はきらめきの中に』。ビー・ジーズが1977年に出したラブソング。映画『サタデー・ナイト・フィーバー』のエンディング曲として使われた。というか、『恋のナイトフィーバー』のほうが印象に残りすぎるけど、いえいえ、『愛はきらめきの中に』もビルボード一位になってます。

これ、男の片思いなんでしょうか。彼女はどうやら旅行好きのようです。旅から旅の渡り鳥。夏になると現れ、夏が終わると去って行く。だから、自分のことをどう思ってくれているか、わからない。それが気になって気になって、ついつい歌ってしまった、というような曲です。

How Deep Is Your Love
収録: Heart Songs
演奏: Tommy Emmanuel & John Knowles
▷Listen

でもラブソングと見せかけて、神への愛を歌い上げるのが王道ですからね。恋の歌のようでいて、その愛情に神から届けられる愛を見て取っている。「魂の扉を開いてくれた」というのも大げさではないです。その時点で、愛の深さは証明されたようなもの。さらに知る必要もありません。

YouTubeでトミー・エマニュエルの演奏を見て、「はて? なんの曲だったろう?」と思ったので、訳してみました。暑い夏はしっとりとしたギターに限る。

ハイデガー「存在と時間」入門

読めば読むほど、味が滲み出てくる。

存在と時間

難読書の名著「存在と時間」。まあ、元の本も読んだし、解説書もあれこれ読んだ。木田元先生の解説が一番わかりやすかったけど、それは日本語の文章が読めただけで、内容が分かったというわけではない。そもそも「存在と時間」自体が未完で、書いたハイデガー自身が「こりゃおかしいわ」と途中で書くのを辞めてしまったイワク付き。そんなおかしな本なのに、なんでこんなに入門書が次々出版されるのでしょう?

たぶん、「存在と時間」は個人の思考を写す鏡。読んだ人から「自分の知らない何か」を引き出す魔力が込められているらしい。だから、いっぱい解説が書かれ、どれも同じにならない。「生きるとは何か」と問われ、各自が自分の有り様をバンと打ち出さないといけなくなる。そういう魔道書だからでしょう。

現存在

そんなわけで、轟先生の解説。新書にしては太くて重い。ハードカバーで出すレベルの研究書です。あまり、他の人の解説を参考に出してないのが潔い。自分の「生きる」をハイデガーにぶつけています。要点は何ですかね。「現存在」を「主体」と捉えないことでしょうか。世界と向き合う主体。そういう「実存主義」を最初からゴミ箱に捨てています。「主体」から始めてしまうと、サルトルとかの読解と同じ方向になるし、結局はよくある形而上学に落ち込んでしまう。そこを避けたい。

そんなわけで「現存在」をもとの Da-sein 、つまり「そこにいること」として読み直す。Sein よりは Da に注目する。人ではなく、場所の語りとして「存在」を扱う。そういうパースペクティブを持ち込んで、さて、「存在と時間」を一貫性のあるものとして読み込めるだろうか。そういう思考実験の書です。「正しい」かどうかはわからない。でも、良い線を行っている感じがする。手応えがあって、読んでいてワクワクしました。

世界内存在

「場」に焦点を当てるとどうなるか。すると、場が語るようになるのです。人が考えたり、語ったりしているのではない。考えている主体は「場」なのです。その思考が「私」を通路にして外に漏れ出してくる。「私」はスピーカーです。パソコンのディスプレイ。表示はしているけれど、ディスプレイが考えているのではない。インターネットという世界が背景にありながら、いま仮に「このページ」を表示している。そんな感じに、「私」に言葉が映し出され「語り」になる。

すでに「この場」があるということ。それが当事者にとっては「私と世界」があるように感じられます。「場」を掴もうとすると、外界としての「世界」と、それを見ている「私」に分裂する。世界が先にあるわけでも、私が先にいるわけでもない。世界と私とは同時に性起している。

デカルトを全否定してるよなあ。というか、ハイデガーの意図はそこにあるらしい。心身二分説に哲学は落ち込んでしまい、袋小路から出ることができなくなった。主観と客観とを分けてしまったことで、どう精神が身体と結びついているか、説明できない。客観だけ考えるなら「科学」でなんとかなるけれど、いつまでたっても「仕組み」の話ばかり。科学は「真理」を語らない。

そんなわけで「場」から考えよう。「世界」と「私」との相互作用それ自体を記述しよう。ハイデガーの野心はそこにあったらしい。科学は How しか記述できない。でも、この新しい哲学なら Why の部分、つまり「存在の意味」を扱えるんじゃないだろうか。

先駆的覚悟

「場」と向き合うには「覚悟」が要る。「死」がどうのこうの、といったことではありません。ふだん、人は世界を「道具」として見ている。自分にとってどう役立つか、という視点で周囲を認識しています。自己保存にとって意味がある。それが普通の意味での「意味」です。

でもそれは一面的じゃないか。もしそういう価値観を人間関係に持ち込んだら「こいつは役に立つ。こいつは役に立たない」という、人を道具か家畜のように見なす視線になる。そいつはどうだろう? 「意味」は有用性の観点から語られるべきではない。では、どうするか。

そこで「死」が持ち出される。これは「自己保存」を棚上げするための方便ですね。現象学のエポケー(判断停止)を生活でも行うために「自分の生き死を度外視する」という態度をとる。このことが「覚悟 Entschlossenheit」と呼ばれています。「閉じたところから脱出すること」。「役に立つ/立たない」の世界から外に飛び出す。そのとき、本来の意味での「存在の意味」が見えるだろう、と。

まとめ

大筋はこんな感じですが、やっぱり実存主義。「主体」を嫌いながら「主体性」の話をしている。だからハイデガーは、後半の執筆を辞めてしまったのでしょう。そうじゃない。これはオレの書きたいことじゃない。まだ「場」について書く準備ができていない。

ハイデガーにとって「主体」を読むとすれば「被投性」のところだろうと思います。「主体」の原語 Sub-jekt は「投げ込まれていること」。気づいたときには既に状況の中に巻き込まれている。決して主体的ではない。むしろ受動的で、時間的に遅れをとっている。その中で「世界」を引き受けるにはどうすればいいか。そういう負い目を人は背負っている。

この部分の考察がフランスに引き継がれて、構造主義ポスト構造主義に展開していくんだろうなあ。そういう意味では、やはり「存在と時間」は必読書ってことになるのかな。

模倣から教育を再考する

だいぶ、記事の投稿が開いてしまいました。ネットの記事の感想でも書こうかな。

サルはサル真似をしない

日本子ども学会での講演。いずれも興味深い話だけど、中でも佐伯胖先生の「模倣から教育を再考する」が絶品です。サルの模倣とヒトの模倣の違いの話。

サルは「サルまね」と言われるけれど、実は模倣をしない。サルの子どもは、母ザルが石を使ってヤシの実を割っているのを見ても真似しない。ヤシの実を割ると食べやすくなることは理解する。でも、どうやって割るかは興味がないらしい。いろいろ自分で試行錯誤して、最終的に石で打ち付けるのが簡単だと発見する。そうして「ヤシの実を石で割る」という文化が次世代に伝達される。サルの学習は、そういうふうに「結果」から推測して為されています。

空箱の手品

あるいは、別の実験。手品で、からの箱からお菓子を出すところをチンパンジーに見てもらう。箱の横を叩いたり、出ている棒を引っ張ったりするうちに、空っぽだった箱からお菓子が出てくる。チンパンジーは興味を持ち、その手順を覚え、同じように箱を叩いたり棒を引いたりする。そしてお菓子が出てくると大喜びする。

ところが、そのあとに種明かし。今度は透明な箱を用意する。実は、箱の上にある天板を引けば、上の空間からお菓子が落ちるだけだった。箱を叩くことも棒を引くこともお菓子には関係なく、最後の動作だけでよかった。そうわかると、チンパンジーは天板を引くことで、すぐお菓子を手に入れるようになる。まあ、当たり前ですよね。

これと同じ実験を人間の赤ちゃんにやってみる。お菓子は食べないからオモチャかな。もちろん最初は箱の横を叩き、手順通りに操作してオモチャを取り出す。大喜びする。新しい箱を出されても、同じ操作手順で箱の中にオモチャを発見する。

ところが、種明かしの後がサルとヒトで異なります。箱の上の空間にオモチャが隠されていて、天板を外せば下に落ちる。サルはそう理解し、不要な手順を省くことができる。でもヒトはそうならない。手品の仕組みがわかった後でも、初めと同じように箱の横を叩き、棒を引く。手順を変えようとしない。それが人間の特徴らしい。

盲目的模倣

サルは「意図」を模倣するのに対し、ヒトは「方法」を模倣する。サルは「どうしてそれをするのか」を理解して模倣する。ヒトは盲目的に手順を繰り返す。なんだか、サルのほうが賢く見えます。というか、ヒトの模倣には欠陥があるんじゃないだろうか。

でも、なるほど。この盲目的な模倣のおかげで、ヒトは言語を習得するんですね。ただただ音を真似る。イントネーションを真似て、母音と子音を組み立てる。意味はわかっていない。でも、大人たちの音声を模倣するうちに言葉が構成され、それを周囲が「意図あるもの」と誤解することで、事後的に赤ん坊は言葉を学習する。

あるいは、宗教の儀式もそうでしょうね。まじないの手順には根拠はない。でも人間はそれを覚え、何度でも反復することができる。儀式を行うことで雨が降れば、それは雨乞いの呪文として精緻化されていく。手順は増えこそすれ、減らされることはない。呪文のどこが効果的かの検証はされない。

雨乞いの学校教育

この盲目的模倣は「未開民族」だけではありません。学校教育も同じ仕組みで行われている。たとえば、小学生に「4×8=32になる問題を作ってみてください」と課題を出してみます。掛け算を理解している、小学三年生から六年生が対象で、文章題を自作してもらう。すると出てくるのが、下記のような「文章題」だったそうです。

「4本のリボンがあります。8人で分けると何本ですか」
「リンゴが4つあって8個の梨とかけるといくつになるでしょう」
「ある人はミカンを4個持ってます。もう一人は8個持ってます。全部で何個ですか」

これは「出題の意図がわかっていない」ではなく、もっと根本的なことだろう、と。子どもたちは「文章題」の形式を理解し、そこに数字を当てはめている。算数を「文章を数式に置き換える儀式」として学習している。

雨乞いの儀式と何も変わらない。正解が出てくれば信心の証しで、不正解になれば努力が足りない。もっと儀式を反復しないといけない。そう、子どもたちは信じている。どうも、学校教育はその盲目的模倣を助長する場となっているのではないだろうか。

まとめ

人間の文化は、種としての盲目的模倣に依拠しているので、それを否定するわけではありません。だからと言って、手放しで肯定できることでもない。その微妙なところを実験で浮き上がらせています。

手順の模倣を基にしながら、どう「意図」を汲みとれるようにするか。でも、ヒトの模倣が「手順の模倣」だとすると、「意図」を理解しても行動レベルに変化はないかもしれない。種明かしの後でも、同じ手順を繰り返すのがヒトの模倣の性格なのだから。

この論には答えがない。考えさせるのがうまいなあ、と思う。

WorkFlowyから純正メモにエクスポートする方法 WorkOut

GW中に修正版が出ました。エクスポートが日本語に対応。

WorkFlowy

WorkFlowy: Note, List, Outline 3.3.10
分類: 仕事効率化,ユーティリティ
価格: 無料 (FunRoutine INC)

必携のアウトライナー。WorkFlowyで対象のトピックを左方向にスワイプしてください。メニューに「Share」が出るのでそれを選択。Share画面の「Share content」の箱出しボタンをタップすれば共有シートが現れます。

ただし「メモに追加」を選んでも何も起こりません。Simplenoteだとうまくエクスポートするけど、それだとSimplenoteを使わない人にはWorkFlowyを推奨できないことになる。それは変な話です。

WorkOut

ショートカット 2.2.1
分類: 仕事効率化,ユーティリティ
価格: 無料 (Apple)

そういうわけで一捻り。ショートカットを使って問題を回避しましょう。実はこの方法、いろいろ応用が利きます。

レシピはこちら → https://www.icloud.com/shortcuts/a7eecbb107a24f00ac11c7eeb8b7951d

使い方

共有シートが現れるので「ショートカット」を選択。先ほどインポートしたWorkOutレシピを選ぶと、トピック全体がメモ帳に転送されます。

カード形式

レシピの中で段差を変換をしています。大見出しを空行で区切り、塊になるようにしています。また3段目以降の小見出しは箇条書きのMarkdownに変換しています。これは自分の欲しい形式にカスタマイズしてお使いください。

Textwell版

Textwell 1.9
分類: 仕事効率化,ユーティリティ
価格: ¥360 (Sociomedia)

Textwellに転送するレシピも書いてみました。中身を書き換えれば別のエディタにも対応します。

レシピはこちら → https://www.icloud.com/shortcuts/1a63021b280345d08ec70f6bee8cdd05

まとめ

WorkFlowyはやっぱり便利。今回の修正で、アプリ版の有用性がグーンとアップしました。

明日のためのプログラミング教育 その2

前回の続き。

  • 明日のためのプログラミング教育 その1
  • プログラミング教育

    プログラミング教育は来年から小学校に導入されます。プログラミング教育と言っても、プログラミング言語を教えることではありません。今使われている言語が10年後も主流である保証はない。必要とされる分野も、子供たちが社会に出るときには変化しています。激変の現代、すべてが時代遅れになるでしょう。

    プログラミング教育の目標は「プログラミング的思考を身に付けること」です。でもそれはどういうことでしょうか。ここあたり文科省ははっきりとした指針を出していず、現場に丸投げになっています。科学技術の未来についてビジョンがないまま、このままではマズいという焦りだけ浮き彫りになっている。

    始める前から、もうダメなレベルですね。

    アルゴリズムの順序

    閑話休題アルゴリズムは現状の把握と目標の設定である。前回そう定義しました。アルゴリズムの出発点は現状を記述したものになります。アルゴリズムの到着点は目標が達成した状態になります。この、現状と目標の差異をスモールステップで埋めていくことがアルゴリズムです。

    スモールステップ

    アルゴリズムの各段階には行動が記述されます。作業ですね。何をするかという行動が書き込まれます。現在のシステムで実行可能な行動が記述されます。この行動を「アクション」と呼ぶことにします。

    もし魔術が使えるなら「明日の朝までに目標が達成している」と書けば大丈夫ですが、魔法使いでない場合その手は使えません。手許のツールで実行可能なアクションになるまで分割する。それがスモールステップです。

    アクション

    前回、欲求の自覚がない場合はアルゴリズムの記述が出来ないと書きました。それは、すでに大枠の目標設定がある場合でも同じです。アルゴリズムに書き込まれる各段階のアクションを考えてみてください。実は、それぞれのアクションにも現状の把握と目標の設定があるのです。

    アクションが実行される前の状態、それがそのアクションの現状です。アクションが実行された後の状態、それがアクションの目標です。アクションによって状況が変化する。どういう状況からどういう状況に変化させたいか自覚しないと、アクションの記述は不可能です。

    記述において、文章ごとに効果がある。その効果が目標の達成に貢献するかどうか判定しなければなりません。アルゴリズムにおけるアクションの順序を決めるためには、アクションごとでの欲求を意識することも不可欠なのです。

    料理のレシピ

    アルゴリズムを書くには、自分の欲求を把握する必要がある。しかもそこに時間差があり、それを理解するメタ時間的視点が要請される。それが可能になる教育とは以下の4点です。

    • 欲求を自覚すること
    • 目標を設定すること
    • 現状を分析すること
    • 行動に分割すること

    何かしたいことがあるとき、それをどういうアクションのシリーズとして考えればいいか。プログラミングとはそういうことです。

    実は、家庭科の授業に結びつければ、上記の4ステップは実感しやすいです。「料理を作る」というプロセス。レシピを書けば、それが「アルゴリズム」になります。

    まとめ

    でも、レシピを自力で書くには国語力が必要です。土壌を作らないと「料理」の記述はできません。そのための国語教育とは何だろうか。

    次回それを考えてみます。

    WorkFlowyアプリにエクスポートが付きました

    待望のエクスポート。

    WorkFlowy

    WorkFlowy: Note, List, Outline 3.3.9
    分類: 仕事効率化,ユーティリティ
    価格: 無料 (FunRoutine INC)

    バージョンアップが来ました。一昔前はWeb版のデザインがそのままアプリになっているだけで、ほとんど出来ることが少なかったのですが、どんどん進化してきています。

    まず起動が早くなった。待たされないのは気持ちいい。データをアプリ内にキャッシュしているので、オフラインでも操作できます。

    スワイプ

    そして今回は、トピック操作が可能になった。左方向へのスワイプが「Delete」だけでなく「Share」や「Duplicate」にも対応しています。スワイプの削除は誤操作に繋がりやすかったので、その防止も兼ねているのかもしれません。

    右スワイプは一瞬でチェックできて便利。

    エクスポート

    段差を出力する方法は「Share」に入っています。Share content のところ。ところがこれ、2バイト文字に対応していません。文字化けします。いろいろなことがメモ帳やエディタのアプリを選んでみましたが、どれも文字化け。アップデート待ちですかね。

    それと、折りたたんであるトピックを強制的に展開し、中身をすべて吐き出します。いやいやいや。これは望んでない。ちょっと困ったタイプのエクスポートになっています。

    ブラウザ版

    ブラウザでWorkFlowyを開いても同じ操作になっています。ただし、Shareの中に「Share content」がありません。JavascriptでShareシートを呼び出す方法がないからでしょう。それに、ブラウザ版はAndroidにも対応しないといけないので、機種依存の機能は使えない。仕方ないです。

    Textwellとの連携

    Textwell 1.9
    分類: 仕事効率化,ユーティリティ
    価格: ¥360 (Sociomedia)

    ということで、読み込みはTextwell経由。Textwellを空白のままアクションを起動します。beta.workflowy.comにアクセスするので、該当のトピックを開いてください。内蔵ブラウザを閉じるときのメニューでトピックを取り込みます。

    Import Textwell ActionWorkFlowy

    なお、Textwellに文章があるとWorkFlowyアプリを起動します。URLスキームがなくても裏技で立ち上げ。そしてペーストだけでCard形式のトピックを貼り付けます。

    まとめ

    英語のアプリの宿命ですね。文字コードの問題が発生する。開発部にアジア圏の人がいないと、テストしたとしても修正できたか確認できず、対応が遅れてしまう。

    でもモバイル版での方向が見えてきました。エクスポートが組み込まれるなら、パソコンを開く必要はありません。WorkFlowyをiPadで使う。指先で並べ換える感触以上の快感はありません。

    あとは修正版が出ることを願うのみです。

    明日のためのプログラミング教育 その1

    プログラミングを小学生が習って役に立つものだろうか。パソコンにエラーを吐かれて挫折感を味わうだけじゃないか。あれって落ち込むんだよなあ。自分の至らなさを突きつけられる。自分で自分の傷をえぐるスタイル。子供たちがかわいそう。

    まず、日常語で筋道立てる論理的思考の力が必要になるだろう。そのための国語教育がプログラミングよりも先になければならない。でもそんなこと、文科省は考えてなさそう。

    まずは、論理的に日常語で考えるとはどういうことか。それを少し考えてみたいと思う。

    目標

    目標は、プログラミングに必要な思考法を日常語で行うことである。そのために必要な概念システムはなんだろうか。どういう教育を行えばそれが可能になるだろうか。それを明らかにしたいと思う。

    まずプログラミングを構成するコンセプトって何だろうか。とりあえず思いつくのは、以下の3つである。アルゴリズム、構造化プログラミング、オブジェクト指向。この3つ。これが理解できないとプログラムを組むのは難しい。

    この3つの概念から出発してみて、足りないと思えば概念を追加することにする。出来るだけ少ない概念で、ここあたりを記述してみたい。

    アルゴリズム

    まず、アルゴリズムについて考えてみる。アルゴリズムとは、行動の手続きである。どういう順番に何を行うかを記述する。ということは、「順番」という概念がすでに形成されていることが条件である。

    時系列に並べること。これって発達的には何歳からだろう。少なくとも、時計を見て時間の計算ができる年齢じゃないかな。1日の過ごし方をスケジュール化するとか、一週間にやるべきことの段取りを考えるとか。

    やるべきことを列挙して、それを依存関係に合わせて順列化する。プロジェクトを立て、必要なToDoをカテゴリー化する作業。問題解決の基本的な枠組みが理解できていないとアルゴリズムは組めない。

    問題解決

    問題解決は、現状の把握と目標の設定によって記述される。今がどういう状態で、それをどうしたいか意識できなければアルゴリズムは書けない。

    あ、これって結構高度なことだ。同時に2つの時空間をイメージしながら、その差異を抜き出す。現在と未来の比較。それをするには、現在ではなく、また未来ではない、そういう場所に視点を設定しなければならない。

    小学生や中学生のときに自分ができていた自信はないなあ。そんなこと、させるの?

    欲求の自覚

    現状の把握は、目標を先に設定しないと不可能である。現状の何に注目すべきかは、どの部分を変化させたいかという欲求によって規定される。ありのままに見る、ということは人間にはできない。必要なところを現状から拾い上げる。知覚とはそういう仕組みになっている。

    デパートを歩いていて、トイレに行きたくなったら、そのときトイレの標識や矢印が知覚される。お腹が空いてきたら、フードコートに関する情報を視覚や聴覚でつかもうとする。それが生命体として身体を持つ人間の行動原理である。よほどの修行を積んだお坊さんでなければ、ありのままに見る、はムリだろう。それに、そういうお坊さんはトイレにもフードコートにも行けないだろう。ありのままに見る、とは、何も情報を拾い上げないのと等しい。

    すると、アルゴリズムを組むとは、まず自分の欲求を知るところにある。いったい何をしたいと思っているのか。そこをつかまずに目標設定は不可能で、目標が不明瞭なら現状把握も不適切になる。

    つまり、アルゴリズムとは自分の欲求を把握することである。まあ、いきなりはムリだ。授業としては「〜となるようにせよ」と目標込みの設問を解くことからだろう。

    まとめ

    でも、欲求を他者から与えられて、それを解くことを繰り返しても解決にはならない。自分の欲求に気づかない限り、アルゴリズムの順序は確定できない。そのことを次回に考えてみます。