Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

ブログは情報の贈与である

ブログとは何か。

難しい問題ですね。 たぶん、人によって違うと思います。 日記として使っている人もあれば、二次創作置き場にしている人もいる。 でもそれでは答えになりませんよね。 自分にとってどんなものかを考えてみないと。

贈与

まず思いつくのは人類学で言う「贈与」。 プレゼントに当たるものです。

たとえばJavascriptはインターネットで覚えました。 初めはブックマークレットを書くために必要で、ネットで調べたのだと思う。 C言語は学生の頃使っていたので、その類推で吸収していった。 そのとき、いろんなブログを見ました。 マニュアルっぽいのもあれば、物語仕立てのもある。 HTMLやCSSに繋がる解説もあるし、ニッチなノウハウもある。 どれもネット上の先達のおかげです。

贈与を受けると負い目を感じる。 何か返礼をしないとモヤモヤします。 といって、プログラミングで返せるようなものはありません。 そんなスキルはない。 ただ、自分ができそうなものなら、粗品だけどお返しできる。 音楽情報とか簡単な翻訳とか。 最初のブログはそんなところから始まりました。

ブログ

なので、ブログのイメージは「宛名のない手紙」です。 プレゼントをくれた相手に返しているわけではない。 見えないところで、誰かが受け取ってくれるかもしれない。 それで構わない、というメディアです。

負い目の解消が目的だから、書けばそれで目的達成です。 誰に届くかは二の次。 届いた人に「負い目」を受け取ってもらえるといいかな。 その次は、その人が贈与を送る番になってくれたら。 そういう連鎖を繋ぐ結節点になる。

昔々のPDSとかオープンソースとかの贈与性ですね。 コンテンツは自分ひとりで作り上げたものではない。 だから「みんな」に返して「みんな」で保守していく。 大文字の他者がそこにいます。

スレッド

それに対してスレッドはどうだろうか。 実はSNSを使っていないので、それがどういう感覚かわかりません。 横から見てるだけです。 傍観者からすると「独り言だなあ」と思う。 長いスレッドになっていても、そこにあるのは「反応」の固まり。 「表現」に届いていない。 ニコニコ動画のコメントと同じ匂いがします。

その分、煌めくものがところどころに入り交じる。 たぶん、生の体験に近い「直観」を扱っているのでしょう。 詩心のある、センスのいいテキストがポンと飛び出す。 まるで俳句のように研ぎ澄まされている。

最近「ランダム・ノート」というコンセプトを見かけ、なるほどと思いました。 閃いたアイデアを、脈絡のないまま、一つのノートにまとめる。 それはアフォリズム箴言集のようになります。 アウトライナーはこれだろうなあ。 文脈を切り落とされた言葉の群れ。 「直観」から「記事」に変容するには、この段階を経るでしょう。

記事になること

いま書いている記事も、最初は「ブログは贈与である」という直観でした。 「なるほど、そうかも」と思ったものの、思いついた自分にも意味がわからない。 それで、この直観を紐解いていて、辻褄合わせをする。 「この直観で合ってるよ」と自分を説得している感じ。 「論理的時間」というヤツです。 直観と理解の間に時間差がある。

並行して「スレッドは交換である」も思いついたけれど、そちらは「記事」になりませんでした。 どうも、ピースが足りない感じがする。 交換だと返答を求めていることになるけど、スレッドは返答無しでも成立しているように見える。

だから「独り言」なんだけど、もし閉じているものだったのなら、そもそも何も書かないだろうし、やはり「聞き手」を求めている。 ただ、大文字の他者ではなく、小文字っぽいなあ。 つまり「仲間探し」をしてる感じに見える。 共感とか傾聴とか好きそうな。 これは何に喩えれば取り扱いやすくなるんだろうか。

時間性

まあ、アイデアは「直観」の領域にあって、なまの体験に密着している。 そこを自己分析し、他の人にも伝わる「物語」に仕立てること。 それがたぶん「記事」に当たるものだし、そのためには一度、体験から距離を置かないといけない。

その「距離」は「少し時間を置いて」の時間のこと。 この時間を導入するために「書く」があるのだろうと思います。 話し言葉だけだと時間は生まれない。 書き言葉の発明があって時間が生まれ、自己の二重化が起こる。

まとめ

たしかに「手紙」ってなんだろう?

おまけ

これはゲームバランスが悪い。