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奥出直人『思考のエンジン』を読んで

「迷路」から「迷宮」へ。

思考のエンジン

思考のエンジン
奥出直人 (著)
全体的な星の評価と星ごとの割合の内訳を計算するために、単純な平均は使用されません。

1990年のパソコン事情が描かれている。ワープロとかコンピュータとかが生活に入ってきたことで「書くこと」の何が変わってきたか。

なにより、ニーチェがタイプライターを使っていたというエピソードが面白かった。そうなのか。それまで文章を書くことは「手で書くこと」だったのに、タイプライターの登場によって「文字を打つこと」に変わった。手で書くことに込められた「こころ」の側面が消え、純粋に「テクスト」と向き合う環境が生まれ、それがニーチェの「系譜学」を形成したのだとすると腑に落ちます。Es denkt in mir(それが私の中で考える)の感触。テクストの他者性を扱うところから「近代」が生まれてきた。

迷路と迷宮

奥出先生の視点で刺激的なのが「迷路」と「迷宮」の違いですね。この本において主題ではないけれど、読み終わっても心に残っています。噛めば噛むほど味が出る。

「迷路」には入り口と出口がある。内部には袋小路があり、それに捕まらないように出来るだけ早く出口を見つけ出す。それが「迷路」です。正解がある。スピードを競う。文章を書くにしても、まず「言いたいこと」があり、それを正確に読者に伝えることを「良し」とする哲学です。それが「近代」の基本ルールになり、学校で教育され、「わかりやすいこと」に価値が置かれていく。

対して「迷宮」には出口がない。入り口から入って、どの道をどう通ったとしても、また入り口に出てしまう。元に帰ってくる。この「迷宮」はハイパーテクストのメタファーになっています。「次の時代」の執筆行為はこの「迷宮」を描き出すものになるだろう。どこから始めてもいいし、どこで終わってもいい。すべては繋がっていて、最終的なゴールはどこにもない。

これが「コンピュータで書くこと」の先にある世界になるのではないか、と。

近代の彼岸

この「予言」は、21世紀に入ってみると「当たり前」になりつつあります。そもそもインターネットが「テクストの迷宮」。出口があるわけではない。互いに矛盾する情報が並列して扱われている。それを裁定する上位審級も存在しない。

この発想法が身体に染み込むことで新しい価値観が生まれてくる。たぶん「出口に早く辿り着く」を目標にする近代的人生観は若い人たちから消えつつあるでしょう。そうした迷路主義は何も生み出さない。「追いつけ、追い越せ」と言われても、その競争相手がいない。いたとしても、同じように不幸な、どんよりとした顔をしている。そもそも「人生の出口」は「死」なのだから、早く着くことが目的ではない。

人生は、無から出発して無に帰る「迷宮」です。何か得るとしたら「迷宮を旅した」という経験。入り口に戻ってきたとき「自分」が変わっている。「出発したときの自分」とは別の「自分」になる。世界各地の民族が「迷宮」をイニシエーションに採用するのは、その「自分が変わる」という経験を重視しているからに違いありません。夜中の神社にロウソクを灯しにいく肝試しのように。

アウトライナー

「迷宮」で何が得られるかは「入り口」ではわかりません。その経験が「役に立つかどうか」を判断するにも、「自分」が変化するわけですから、変化する前の「自分」に理解できるわけがない。「役に立つかどうか」の疑問が無効になるのが「迷宮」です。「迷路」しか知らない人は「役に立つの?」と聞きますが、それは「自分が変わる」という体験を知らないからでしょう。

奥出先生は自分自身に「迷宮」を作り出す装置としてアウトライナーを挙げています。ただ、30年前の話ですから、そのアウトライナーは「アイデアプロセッサー」です。自分の言いたいことを順序立てて相手に伝えるためのツール。思考を「迷路」と考えて、効率よく出口を目指そうとする。それは正解が初めから存在する、プラトン的な「ロゴス」の世界。でも、これじゃない。

『思考のエンジン』では、そうしたアウトライナーを駆使しながらも、なんとか「迷宮」としての執筆環境を生み出そうと苦心しています。成功しているとは思えないけど、この試みは参考になる。結局ツールではないのですね。それを使う「こちら側」の人生観が問われている。

まとめ

この本自体はパソコン雑誌に載っていた連載でした。デリダが引用されつつ、ハイパーカードにテクストの未来を見ている。Macで走る新しいアウトライナーが次々と紹介され、そこに記号論的な考察を付加していく。面白いなあ。そして深い。

現代から振り返ると、個人が使っていたハイパーカードが、そのあとインターネットとして世界に広がり、今また個人用のノートアプリに逆輸入され始めたのだと思う。ObsidianにしてもLogseqにしても、ネットを見るブラウザをメタファーにしているのではないでしょうか。Wikipediaが手本になってるし、アウトライナーというけれど、一昔前に流行ったBBSの「スレを立てる」の所作が変形している。「これはあれか」の体感があるから、ツールとして手に馴染むのだと思うけどね。