Jazzと読書の日々

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ハイデガー「存在と時間」入門

読めば読むほど、味が滲み出てくる。

存在と時間

難読書の名著「存在と時間」。まあ、元の本も読んだし、解説書もあれこれ読んだ。木田元先生の解説が一番わかりやすかったけど、それは日本語の文章が読めただけで、内容が分かったというわけではない。そもそも「存在と時間」自体が未完で、書いたハイデガー自身が「こりゃおかしいわ」と途中で書くのを辞めてしまったイワク付き。そんなおかしな本なのに、なんでこんなに入門書が次々出版されるのでしょう?

たぶん、「存在と時間」は個人の思考を写す鏡。読んだ人から「自分の知らない何か」を引き出す魔力が込められているらしい。だから、いっぱい解説が書かれ、どれも同じにならない。「生きるとは何か」と問われ、各自が自分の有り様をバンと打ち出さないといけなくなる。そういう魔道書だからでしょう。

現存在

そんなわけで、轟先生の解説。新書にしては太くて重い。ハードカバーで出すレベルの研究書です。あまり、他の人の解説を参考に出してないのが潔い。自分の「生きる」をハイデガーにぶつけています。要点は何ですかね。「現存在」を「主体」と捉えないことでしょうか。世界と向き合う主体。そういう「実存主義」を最初からゴミ箱に捨てています。「主体」から始めてしまうと、サルトルとかの読解と同じ方向になるし、結局はよくある形而上学に落ち込んでしまう。そこを避けたい。

そんなわけで「現存在」をもとの Da-sein 、つまり「そこにいること」として読み直す。Sein よりは Da に注目する。人ではなく、場所の語りとして「存在」を扱う。そういうパースペクティブを持ち込んで、さて、「存在と時間」を一貫性のあるものとして読み込めるだろうか。そういう思考実験の書です。「正しい」かどうかはわからない。でも、良い線を行っている感じがする。手応えがあって、読んでいてワクワクしました。

世界内存在

「場」に焦点を当てるとどうなるか。すると、場が語るようになるのです。人が考えたり、語ったりしているのではない。考えている主体は「場」なのです。その思考が「私」を通路にして外に漏れ出してくる。「私」はスピーカーです。パソコンのディスプレイ。表示はしているけれど、ディスプレイが考えているのではない。インターネットという世界が背景にありながら、いま仮に「このページ」を表示している。そんな感じに、「私」に言葉が映し出され「語り」になる。

すでに「この場」があるということ。それが当事者にとっては「私と世界」があるように感じられます。「場」を掴もうとすると、外界としての「世界」と、それを見ている「私」に分裂する。世界が先にあるわけでも、私が先にいるわけでもない。世界と私とは同時に性起している。

デカルトを全否定してるよなあ。というか、ハイデガーの意図はそこにあるらしい。心身二分説に哲学は落ち込んでしまい、袋小路から出ることができなくなった。主観と客観とを分けてしまったことで、どう精神が身体と結びついているか、説明できない。客観だけ考えるなら「科学」でなんとかなるけれど、いつまでたっても「仕組み」の話ばかり。科学は「真理」を語らない。

そんなわけで「場」から考えよう。「世界」と「私」との相互作用それ自体を記述しよう。ハイデガーの野心はそこにあったらしい。科学は How しか記述できない。でも、この新しい哲学なら Why の部分、つまり「存在の意味」を扱えるんじゃないだろうか。

先駆的覚悟

「場」と向き合うには「覚悟」が要る。「死」がどうのこうの、といったことではありません。ふだん、人は世界を「道具」として見ている。自分にとってどう役立つか、という視点で周囲を認識しています。自己保存にとって意味がある。それが普通の意味での「意味」です。

でもそれは一面的じゃないか。もしそういう価値観を人間関係に持ち込んだら「こいつは役に立つ。こいつは役に立たない」という、人を道具か家畜のように見なす視線になる。そいつはどうだろう? 「意味」は有用性の観点から語られるべきではない。では、どうするか。

そこで「死」が持ち出される。これは「自己保存」を棚上げするための方便ですね。現象学のエポケー(判断停止)を生活でも行うために「自分の生き死を度外視する」という態度をとる。このことが「覚悟 Entschlossenheit」と呼ばれています。「閉じたところから脱出すること」。「役に立つ/立たない」の世界から外に飛び出す。そのとき、本来の意味での「存在の意味」が見えるだろう、と。

まとめ

大筋はこんな感じですが、やっぱり実存主義。「主体」を嫌いながら「主体性」の話をしている。だからハイデガーは、後半の執筆を辞めてしまったのでしょう。そうじゃない。これはオレの書きたいことじゃない。まだ「場」について書く準備ができていない。

ハイデガーにとって「主体」を読むとすれば「被投性」のところだろうと思います。「主体」の原語 Sub-jekt は「投げ込まれていること」。気づいたときには既に状況の中に巻き込まれている。決して主体的ではない。むしろ受動的で、時間的に遅れをとっている。その中で「世界」を引き受けるにはどうすればいいか。そういう負い目を人は背負っている。

この部分の考察がフランスに引き継がれて、構造主義ポスト構造主義に展開していくんだろうなあ。そういう意味では、やはり「存在と時間」は必読書ってことになるのかな。