Jazzと読書の日々

iPadを筆記具として使う方法を模索します

模倣から教育を再考する

だいぶ、記事の投稿が開いてしまいました。ネットの記事の感想でも書こうかな。

サルはサル真似をしない

日本子ども学会での講演。いずれも興味深い話だけど、中でも佐伯胖先生の「模倣から教育を再考する」が絶品です。サルの模倣とヒトの模倣の違いの話。

サルは「サルまね」と言われるけれど、実は模倣をしない。サルの子どもは、母ザルが石を使ってヤシの実を割っているのを見ても真似しない。ヤシの実を割ると食べやすくなることは理解する。でも、どうやって割るかは興味がないらしい。いろいろ自分で試行錯誤して、最終的に石で打ち付けるのが簡単だと発見する。そうして「ヤシの実を石で割る」という文化が次世代に伝達される。サルの学習は、そういうふうに「結果」から推測して為されています。

空箱の手品

あるいは、別の実験。手品で、からの箱からお菓子を出すところをチンパンジーに見てもらう。箱の横を叩いたり、出ている棒を引っ張ったりするうちに、空っぽだった箱からお菓子が出てくる。チンパンジーは興味を持ち、その手順を覚え、同じように箱を叩いたり棒を引いたりする。そしてお菓子が出てくると大喜びする。

ところが、そのあとに種明かし。今度は透明な箱を用意する。実は、箱の上にある天板を引けば、上の空間からお菓子が落ちるだけだった。箱を叩くことも棒を引くこともお菓子には関係なく、最後の動作だけでよかった。そうわかると、チンパンジーは天板を引くことで、すぐお菓子を手に入れるようになる。まあ、当たり前ですよね。

これと同じ実験を人間の赤ちゃんにやってみる。お菓子は食べないからオモチャかな。もちろん最初は箱の横を叩き、手順通りに操作してオモチャを取り出す。大喜びする。新しい箱を出されても、同じ操作手順で箱の中にオモチャを発見する。

ところが、種明かしの後がサルとヒトで異なります。箱の上の空間にオモチャが隠されていて、天板を外せば下に落ちる。サルはそう理解し、不要な手順を省くことができる。でもヒトはそうならない。手品の仕組みがわかった後でも、初めと同じように箱の横を叩き、棒を引く。手順を変えようとしない。それが人間の特徴らしい。

盲目的模倣

サルは「意図」を模倣するのに対し、ヒトは「方法」を模倣する。サルは「どうしてそれをするのか」を理解して模倣する。ヒトは盲目的に手順を繰り返す。なんだか、サルのほうが賢く見えます。というか、ヒトの模倣には欠陥があるんじゃないだろうか。

でも、なるほど。この盲目的な模倣のおかげで、ヒトは言語を習得するんですね。ただただ音を真似る。イントネーションを真似て、母音と子音を組み立てる。意味はわかっていない。でも、大人たちの音声を模倣するうちに言葉が構成され、それを周囲が「意図あるもの」と誤解することで、事後的に赤ん坊は言葉を学習する。

あるいは、宗教の儀式もそうでしょうね。まじないの手順には根拠はない。でも人間はそれを覚え、何度でも反復することができる。儀式を行うことで雨が降れば、それは雨乞いの呪文として精緻化されていく。手順は増えこそすれ、減らされることはない。呪文のどこが効果的かの検証はされない。

雨乞いの学校教育

この盲目的模倣は「未開民族」だけではありません。学校教育も同じ仕組みで行われている。たとえば、小学生に「4×8=32になる問題を作ってみてください」と課題を出してみます。掛け算を理解している、小学三年生から六年生が対象で、文章題を自作してもらう。すると出てくるのが、下記のような「文章題」だったそうです。

「4本のリボンがあります。8人で分けると何本ですか」
「リンゴが4つあって8個の梨とかけるといくつになるでしょう」
「ある人はミカンを4個持ってます。もう一人は8個持ってます。全部で何個ですか」

これは「出題の意図がわかっていない」ではなく、もっと根本的なことだろう、と。子どもたちは「文章題」の形式を理解し、そこに数字を当てはめている。算数を「文章を数式に置き換える儀式」として学習している。

雨乞いの儀式と何も変わらない。正解が出てくれば信心の証しで、不正解になれば努力が足りない。もっと儀式を反復しないといけない。そう、子どもたちは信じている。どうも、学校教育はその盲目的模倣を助長する場となっているのではないだろうか。

まとめ

人間の文化は、種としての盲目的模倣に依拠しているので、それを否定するわけではありません。だからと言って、手放しで肯定できることでもない。その微妙なところを実験で浮き上がらせています。

手順の模倣を基にしながら、どう「意図」を汲みとれるようにするか。でも、ヒトの模倣が「手順の模倣」だとすると、「意図」を理解しても行動レベルに変化はないかもしれない。種明かしの後でも、同じ手順を繰り返すのがヒトの模倣の性格なのだから。

この論には答えがない。考えさせるのがうまいなあ、と思う。