Jazzと読書の日々

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「学習」について

「学習」という言葉はもちろん、論語の学而篇に由来する。

学びて時にこれを習ふ。また悦ばしからずや。

孔子の時代はまだ「悦」の字がなく「説」になっているが、意味に変わりはない。学習は愉悦である。魂が抜け出すほど恍惚として楽しい、と孔子は言っている。変わったお人である。

さて、問題は「学ぶ」と「習う」の2段階あることだ。つまり、「学ぶ」のあとに「習う」が来る。これはどう違うのだろうか。「学ぶ」と「習う」の間にある差異。漢字での考察はすでにあるものの、日本語ではどうだろう。孔子の意図を離れたところで考えてみたいと思う。

「這ふ」について

「習う」を先に見てみる。「ならう」は、動詞の「成る」に接尾辞の「這う」が合成されている。「這う」は継続を表す。「語る」に付けば「語らう」になり、「叩く」に付けば「戦う」になる。「這う」の合成語は多く、「祝う」や「笑う」もそうだろう。言葉を使って相手の霊力を高めるのが「祝う」であり、閉塞した状況を打開するのが「笑う」である。

「習う」は「成り続ける」という原義である。「踊りを習う」とは「踊りそのもの」に自らを生成することにある。「技術を習う」とは「技術そのもの」が自らの手足のように動くことである。それそのものと一体化し、自分自身の身体となる。道元の「自己を習ふというは自己を忘るるなり」もこの通りである。自己と一体化しているときは、自己自身を意識することはない。それが「習う」の持つ働きである。

「習う」によって身体化したとき、それを「慣れる」や「熟れる」と呼ぶ。「なれる」は、動詞の「成る」に接尾辞「得る」が付いたものだ。「習う」が行動となったとき「慣れ」が獲得される。意識せず実行に移せるところへと身をはめ込んでいく。それが「習う」である。

失われた「まぬ」

すると「学ぶ」はどうだろう。これも動詞「まぬ」に接尾辞「這ふ」が付いたものではないだろうか。「まなぶ」は「まねぶ」の変化と言われる。ただこの説は「まねぶ」のほうが新しいので当たらない。「まねぶ」は、動詞「まぬ」に「得る」が合成した「まねる」の変化と見ておく。「学ぶ」の結果として獲得したものが「まねる」であり、それが「真似」と言われる。表面的な形を模倣することである。

でも、現代の日本語に「まぬ」という動詞はない。もし過去に存在したとしたら、どんな意味を持っていただろう。少し空想してみよう。思いつくのは「まなこ」という「眼」のことだ。ただし「まなこ」は「ま」だけで「眼」という意味で、動詞ではない。「まぬがれる」も考えたが、これも「眼から逃れる」だろう。なかなか、そのままの姿では見つけられない。

ただ、「ま」が動詞化して「まぬ」があったのではないかと想像する。「目にする」くらいの意味で、最終的には動詞の「見る」に吸収されたのかもしれない。「みる」は「試してみる」や「考えてみる」のように意図の接尾辞でもある。「見る」は「意識して行う」のニュアンスを帯びている。ぼんやりと目の端で見るほうを「まぬ」と呼んだのだろうか。でも、「ぬ」で終わる動詞というところが変な感じもする。

ともあれ、「学ぶ」は「見続ける」であると考えてみる。師匠の行うところを側に控えて観察する。四六時中、目を離してはいけない。見ることによって視覚的に同一化する。教える者がいて、その人が実地に行なってみせる。それを目に焼き付ける。この段階が「学ぶ」と呼ばれるのだろう。

忘却の学習

「学ぶ」は観察であり、人との同一化である。「習う」は実践であり、芸との同一化である。テオリアとプラクシス。そうした差異がある。これを漢字の「学」や「習」に当てはめ、読みを決めたのだろう。芸事において「名を継ぐ」のは、まだ「学ぶ」である。守破離の「守」である。師匠を忘れ自己を忘れ、ただ技芸そのものとなる。そのときが「破」である。

すると「学習」そのものを忘れたとき「離」とされるのだろうか。「学習」には一歩先がある。